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2007年4月

2007年4月30日 (月)

「手編みの靴下」

   岩国市  会 員  横山 恵子

 寒の戻りもあるかなと思って、少しずつ冬物の整理をしていたら、嫁が編んでくれた赤い毛糸の靴下が目に入った。もったいなくて一度しかはいていない。

 あれは私が小学6年の時。学校で青い毛糸の靴下を編んだ。それを田舎に住み、風邪で寝ていた大好きな祖父に「おじいちゃん、足を出して」と履かせたら「あったかいのう」と目を細めてくれたっけ。 

 祖父亡き後、広く感じられた部屋の押入れに、その靴下はきれいなままあった。今になってやっと祖父の気持ちが……。赤い靴下を履いてみた。毛糸を通して嫁の温もりが伝わってくるようだ。

  (2007.04.30 毎日新聞「はがき随筆」掲載)

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2007年4月28日 (土)

「40の偶然」

    岩国市  会 員   片山 清勝

 今年は結婚40年のルビー婚。ルビーは無理だが、バラの1本でも贈ろうと思っていた。いざとなると照れくさくて買いにいけない。

 その記念日の朝。膨らみかけたミニバラのつぼみが写真を撮ってと誘うように揺れていた。撮りながらつぼみがたくさんあるのに気づき数えたら40個。

 丁寧に数えなおしたがやはり40個。今日の記念日を知り、1本のバラも買えない古いタイプのご主人の手助けと、年数と同じつぼみをつけ、写真を撮ってとバラは誘った。

 偶然にしてもこんな自然からの贈り物は2度となかろう。話しかけながらする水やりへのお返しだろうか。

    (2007.04.28 毎日新聞「はがき随筆」掲載)

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2007年4月27日 (金)

「わだかまり」

 岩国市  会 員   沖 義照

その日まで送別会の申し出をすべて断っていた。前日、机の上もきれいに掃除を済ませておいた。

最後の日、辞令をもらった後、事務所玄関先での花束贈呈も、万歳三唱も、黒塗りの車での見送りも辞退した。37年間の勤めを終えて、いつもと同じように自分の車を運転して昼前に家に戻った。

その日の夕方、インターホーンが鳴った。玄関に出た妻が大きな声で私を呼ぶ。色鮮やかな深紅のバラの花を抱えた後輩社員が笑顔で立っていた。

誰にということではなく、会社に対して抱いていたわだかまりの一角が、その時大きく崩れていった。

(2007.04.27 毎日新聞「はがき随筆・四季特集『花』」掲載)

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2007年4月26日 (木)

「母のリンゴジャム」

   岩国市  会 員   安西 詩代

94歳で逝った母の49日が過ぎた頃、兄が母の一人住まいの家を片づけながら、電源の切ってある冷蔵庫を開けた。入院の際にほとんどの物は処分したが、ビンに入っている物は、そのまま冷蔵庫に入れたままだった。

兄が2本のコーヒーのビンを手にして「記念に持って帰るか?」と私に言った。私にはそれが何か、すぐに分かった。母が大好きだったリンゴジャム。リンゴをおろし金で下ろし、砂糖を加えて煮込むと、良い香りがプーンと広がる。朝のパンにたっぷり付けて食べていた母の姿が浮かんだ。

6年半前のリンゴジャム。いくら母の記念だからといっても、中は腐ってカビだらけだろうから見たくないと思った。

だが、フタを開けると、ジャムはアメ色に熟成され、表面は鏡のようにきれいだった。おそるおそる一口なめてみた。「大丈夫! いける!」

6年半の月日を経て、母からのプレゼント。「ありがとう」。母に会いたい一心で周南市の病院まで通った6年半、年間走行距離が2万キロに達した。

できるだけ長い間味わいたい。パンの先につけると、涙でぼやけ、鼻の奥がツーンとした。そして、ジャムの甘さが口いっぱいに広がった。

あれから2年の歳月が過ぎた。

 (2007.04.26 朝日新聞「ひととき」掲載)

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2007年4月24日 (火)

「日米結んだ花」

   岩国市  会 員  樽本 久美

 最近、「ハナミズキ(花水木)」という花を初めて知った。大正5年に東京市長の尾崎行雄氏が、アメリカのワシントン市に桜を寄贈した返礼として、アメリカから贈られた花がハナミズキであったそうである。

 英語では、「DOGWOOD」と言うそうである。英会話のクラスで、博識の人が、そのことを教えてくれた。また偶然にも最近入会したエッセー同人誌のタイトルも「花水木」であった。

 同人誌の代表の方の庭には、立派なハナミズキが咲いている。先日、午前中に見せていただいた。桜に似ているが、幹も細くて、しかも花びらが何ともいえないかわいさで、一目で気に入ってしまった。「はなみずき」の言葉の響きもよくて、ますます好きになってしまった。

 偶然にも、その日の午後、米海兵隊岩国基地での英会話のクラスに行った時、何とハナミズキの花が、植えてあるではないか。そして白い花が咲いていた。花びらが特徴的なので、一目で分かった。すぐに携帯カメラで撮った。

 今度から私の好きな花は、ハナミズキにしよう。錦帯橋の桜もいいが、ハナミズキもなかなかである。今、岩国の街は、基地の問題でいろいろもめている。何とかうまい方法で解決できたらいいと思う。今日はハナミズキとのすてきな出会いの日であった。

  (2007.04.24 中国新聞「広場」掲載)

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2007年4月18日 (水)

「郷土の偉人」

   岩国市  会 員   角 智之

 

 「日本のエジソン」と呼ばれた藤岡市助(1857-1918)の生誕150年を記念して、岩国市錦見の西岩国駅構内にあるふれあい交流館西岩国で、功績を紹介するパネル展が開かれている。

 市助は、現在の岩国3丁目で生まれ、8歳の時、藩校の養老館へ入学し、当時から勉学に励む少年であった。その後、岩国英国語学所で頭角を現し、すぐれた才能が旧藩主の目にとまり、東京遊学を命じられ、工務省工学寮(後の東京大工学部)へ入学した。

 在学中の1878年には、ある祝宴会でわが国最初のアーク灯を点灯させ、出席者を驚嘆させた。首席で卒業した市助は、米国で開かれた万国電気博覧会に出席し、エジソンに面会して「生涯を電気事業の創設にささげたい」との思いを語った。

 帰国後は、アーク灯に代わる光源として家庭でも使用できる白熱電灯の研究に没頭した。市助の研究と岩国のつながりは深く、85年には中国地方で最初の白熱電灯を点灯させ、1909年には市内電車を走らせた。

 後に市助の創設した「東京電気」は、からくり機械の達人と言われた田中久重の創設した「芝浦製作所」と合併し、今や世界的電機の総合メーカー「東芝」に発展した。

 今回のパネル展で、郷土の偉大な科学者の功績を再確認した。

  (2007.04.18 中国新聞「広場」掲載)

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2007年4月10日 (火)

「ほろにが誕生祝い」

   岩国市  会 員  吉岡賢一

 明治41年生まれの母が先日、99回目の誕生日を迎えた。毎年恒例で、この日は姉弟が集まり、ささやかな誕生祝の宴会を催した。しかし、残念ながら肝心の主役の母の姿は昨年も今年も、その席にはない。

 一昨年の暮れ、わが家の自室で大腿骨骨折以来、介護療養型医療施設のベッドに寝たきり。生活のすべてを施設の医師や職員さんのお世話になる毎日で、身体全体の硬直化や認知症が進み、車いすに座らせることさえ困難な状態になっている。

 施設では101歳、100歳、99歳、84歳という高齢化社会の典型のような4人部屋で、わが母は、まだ99歳。「あんたは、まだ若手なんよ」と、言葉も理解しにくくなってきた耳元でささやいてあげると、うっすら笑顔を見せる。

 父が亡くなって36年。いまだに母を迎えに来ない父を恨めしく思ったこともある。でも今となっては迎えなど来なくていい、母が自ら行くまで待っていてほしい。

 けなげに生きる母への応援には、ますます力が入る。主役のいない誕生祝は、お酒も料理も「ほろ苦さ」という隠し味に悩まされはするが、当面来年の100歳の誕生祝をさせてくれることを切に願って、心の中でてを合わせている。

  (2007.04.10 中国新聞「広場」掲載)

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2007年4月 7日 (土)

「名前の行方」

   岩国市  会 員   檜原 冨美枝

 昭和32年11月5日に結婚し名字は変わったが、名前は変えていないのに、その日から「オイ」に変わった。

 

以来50年。「オイ」と呼ばれ「ハイ」と返事をし、オイ、ハイの生活が始まった。せっかく親が吟味してつけてくれた名前はどこへやら消えてしまった。

照れもあり、亭主の威厳も示したいのか、悪気ではない事だけはわかっているのだが。子どもからはお母さん、孫たちからはおばあちゃんと呼ばれ、遂に名前の出番はなくなった。

 

女は三界に家なしと言うが、名前までなくなるとは思いもしなかった。まあせめてお位牌にでも明記してもらうとしようか。

  (2007.04.07 毎日新聞「はがき随筆」掲載;入選)

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2007年4月 6日 (金)

「監督の役目」

岩国市  会 員   沖 義照

 

 選抜高校野球は常葉学園菊川が初優勝して終わった。送りバントはたった一つだけで、高校野球の定石を使わない采配が注目された。

 森下知幸監督は「強攻策を貫くのは、バントの意識をなくすことで選手が迷わずに打てるから」「どんな内野ゴロでも三塁走者は本塁突入。敬遠はしない」「選手がやりたいことを迷わず出来るように応援するのが監督の役目だ」と言う。

 作戦をひたすら単純化し、選手にあれこれ考えさせない采配をした。この監督の言葉には多くの示唆があるように思う。

 ある組織において、達成しなければならない大きく困難な目標があったとする。組織のリーダーが解決策を考え部下にそれを強要しても、いい結果を出すことは難しい。

 それよりも解決策は部下に考えさせ、リーダーはそれがうまくいくように環境を整えてやるなど、支援してやるほうが成功することが多い。

 人はほかから強要されるのではなく、自らの考えに従って動く方を好む。この監督のすばらしさは、高校野球の定石を簡単に捨て、信念を持って球児のやりたいことをさせて、頂点を極めたことである。

 わが子に対しても、子供がやりたいことが決まれば、親は黙って応援してやるのが本当はいいのかもしれない。

  (2007.04.06 中国新聞「広場」掲載)

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2007年4月 3日 (火)

「最後の見送り」

    岩国市  会 員   沖 義照  

80歳の病弱な母ひとりを故郷に残し、家族を伴って遠くに転勤していた。近くに出張の折には、必ず母のいる実家に泊まるようしていた。

 春まだ浅い日、久しぶりに夜遅く帰った。すでに休んでいた母は起き出してお茶をいれてくれ、孫の様子を聞きたがった。

 翌朝、帰っていく私を門にすがって見送ってくれる。近くのバス停に行く途中、一旦は途切れるが、また実家がみえる所がある。別れた時の姿勢のまま、遠くから私を見ているのが分かる。

 来たバスに乗った。最後部の窓からバスを見送る母の姿が小さく消えた。あの日から15回、庭の木蓮の花は散った。

  (2007.04.03 毎日新聞「はがき随筆」掲載;入選)

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