« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »

2009年11月

2009年11月29日 (日)

「翁の下で」

    岩国市  会 員   片山 清勝

 
子どものころ、近所の庭に大きくて高い銀杏の木が1本あった。幹の回りは、子ども数人が手をつないでやっと届くくらい大きかった。その銀杏の周りにちょっとした広場があった。そこに落ち葉が積もり始めるといつの間にか子どもが集まり、遊び始める。私も大きな声で駆けまわりながら騒いでいた一人だった。騒いでもその家の人から諭されたという記憶はない。
 
落ち葉をかき集め小山にする。集めた葉を両手でつかんで誰彼の区別なく頭上から振り掛ける。また集めて振り掛けるの繰り返し。単純な繰り返しのどこが楽しかったのか、古いことで思い出せないが、大声をあげて日が傾くまで遊んだ。
 
時には風にのって舞い落ちてくる黄色い葉をつかもうと、ふらふらしながら小さな手が空をきる。つかめばまた大声を出す。この楽しい遊びも独特の匂いの実が落ち始めると終わる。
 
その銀杏の木は小高いところにあり、少し離れたところからでも眺められた。住まいを移ってからもその辺りを通りかかると、梢の黄色を懐かしく見ていた。その梢が突然消えた。子どもたちを翁のように見守ってくれた木。その下で遊んだ思い出まで失ったようで寂しい。再び経験できないことへの郷愁かもしれない。
 
どうして見えなくなったのかと思いながら、まだそこへ足を運んでいない。いつか回り道をし、あの小さな広場を訪ねてみよう。
  (2009.11.29 毎日新聞「男の気持ち」掲載)

| | コメント (0)

「支えられて」

      岩国市  会 員   横山 恵子

 
母が「夕焼けがきれいよ。出て見んさい」と言う。うろこ雲の周りの紅色が目に飛び込んできた。しばし大空のパノラマにくぎづけだ。

 両親と同居して17年。いろいろあったが、不規則な仕事を支えてくれた功労者は母。悩んでいると「人は自分の肩に乗るだけの苦労は背負うものと言うからねー」とか「恩は岩に刻め、憎しみは水に流せ」との言葉に重荷も軽くなった。

 親子といえども、素直になれなくてたまに火花を散らすこともあった。でも、年とともにお互いまあるくなった? まだまだ頼りにしているんだから、□と同じように体も元気でいてね。
   (2009.11.29毎日新聞「はがき随筆」掲載)

| | コメント (0)

2009年11月27日 (金)

「生きるとは?」

   岩国市  会 員    安西 詩代

 
「昨夜、主人が亡くなりました」と早朝の電話で告げられた。熊本の夫の友人を見舞いに行ってわずか16日目。あの日の彼のまだ生きたいという生命力あふれる握手が、手に残っている。

 医師から、もう手術も治療もできませんと言われ、自力での奇跡を起こすと彼と奥さんは頑張っていた。8月に日本アルプスをご夫婦で縦走した。

 私の夫は「登山で体力を消耗したから、病魔のほうが勝ったのだ」と悔やむ。しかし、山登りに行かなかったら、何力月長生きできたの? 私は最後の山登りに、二人の生き方を感じた。まだ星の残る早朝、夫は悲しい別れに出かけた。 
  
2009.11.27 毎日新聞「はがき随筆」掲載)

| | コメント (0)

「先生の生き方を見習おう」

    岩国市  会 員   吉岡 賢一 

 3年半ぶりの中学校同期会を開いた。住所の洗い出し作業の中で、数学の女性の先生が千葉県にお住まいとの情報を得た。早速案内状を発送したものの卒業以来52年という歳月。その間、全く何の接触もないのだから出席は無理かなというのが正直な気持ちだった。
 ところが、案内状に続く女性幹事の熱心な電話勧誘もあって出席いただけることになった。
  

 出迎えのホームに降り立った先生は、想像以上に元気そう。一気にタイムスリップし、私たちの顔をたちまち思い出してくださった。毎回、出席していただいている先生方とともに同期会が最高に盛り上がったことは言うまでもない。
 
翌日は錦帯橋など観光名所をゆっくり散策。思い出に残る西岩国駅など数力所を巡って丁重にお見送りした。「もう岩国も、これが最後と思っていたけど、3年先の同期会にもぜひ参加したい」とのうれしいお礼の言葉もいただいた。
 3
年先は記念となる古希同期会。先生方の元気な生き方を見習おう。そして今回よりさらに充実した笑顔をお土産にできるよう幹事団の結束を維持していきたい。
 
 (2009.11.27 中国新聞「広場」掲載)

| | コメント (0)

2009年11月17日 (火)

「栓を開ける日」

       岩国市  会 員   片山 清勝

 彼を料理のできる会社保養所管理人として引き抜いたのは13年前。彼は上手は言わない。仕事には誠意があふれ、利用した人は満足した。私はOBとなってからもよく利用した。

 ここに来て会社の状況は厳しく、保養所は閉鎖に。最後の日「新職場では君の腕と誠実さがまた多くの人を喜ばせる」と励ます。「応えます」と力強い握手に決意を感じる。

 別れ際、奥さんがそっと渡してくれた箱は有名な銘酒。ラベルに夫婦の笑顔が大きく描かれ「ありがとう、支えてもらったお陰です」そんな意味の添え書き。じんときた。彼が落ち着いたら銘酒を味わおう。
  
 (2009.11.17 毎日新聞「はがき随筆」掲載)

  

| | コメント (0)

2009年11月12日 (木)

「墓参り」

        岩国市  会 員    治子

 「ようお参りなされましたのー」と住職の声に迎えられて山門をくぐる。
 
 
母が眠っているのはかなり奥。後ろに大きなイチョウの木がある。枝を広げて、まるで大きな手で母の墓を守っているかのよう。銀杏を一つひとつ拾いながら、いつしか母と話し込んでいた。「お母さんの手料理を食べたくなったわ」。ご飯、茶わん蒸し、おでんとこの時期は銀杏を入れた母の料理が食卓をにきわした。今は父と差し向かいで杯やっているのかな?

 いつしか辺りは夕闇が迫ってきていた。「気をつけて早うお帰りよ」。母の声がする。      

     (2009.11.12 毎日新聞「はがき随筆」掲載)

| | コメント (0)

2009年11月11日 (水)

「セルフGSで若者の奮闘に思う」

   岩国市  会 員   片山 清勝 

 
寒い日が続くという予報が出た日、暖房用の灯油を買いに行った。持参のポリタンクにセルフで購入。店独自のサービスポイントが積み立てられ、さらにグリーンスタンプの点数も加算される。何か得した気持ちになった。
 そこのスタンドの従業員数が少なくなっている。以前は3入くらいで働いていたが、前回も今回も1人の姿しか見えない。セルフ以外の車へのガソリン給油や灯油の量り売り、ポイントの入力に電話応対と、若い男性が小走りで忙しく働いていた。   

 報道では雇用の厳しい状況が続いている。有効求人倍率は低いまま推移し、失業者数は増加している。中小企業では明るい望みは見えてこない。そんな背景の中でその若者は一人もくもくと働いていた。トイレや弁当の時間は確保出来るのだろうか、人のことだが心配になる。たまたま立ち寄った時間が勤務表で少ない時間帯だったら救いではある。だが、前回と同じように一人で働く忙しさを目にして気になった。

 スタンドを出るとき、「ありがとうございました」という若者の大きな声が後ろから届いた。なにか救われたようで、直ちに「頑張れよ」の意味を込めて車の窓から手を出して応えた。
 
2009.11.11 朝日新聞「声」掲載)

| | コメント (0)

2009年11月 5日 (木)

「逆境の赤い線」

    岩国市  会 員   沖 義照

 
台風の接近で秋というのに天の低い昼下がり、久しく見向きもしなかった古い文庫本のなかから1冊を取り出した。見開きに万年筆で購入日が書いてある。21歳のとき買ったものだ。

めくっていくと、最後のぺージに赤い線が引いてある。「傷ついても、之が神から与えられた杯ならばのみほさなければならない」というくだりである。失恋という逆境こそが、より強く生きることができる原動力だとうたった武者小路実篤の『友情』である。

 私が逆境でもがいていたときに読んだ本なのだろう。赤い線が、左に右に大きく揺れ動いている。
 
2009.11.05 毎日新聞「はがき随筆・特集『実』」掲載)

| | コメント (0)

「白い袋」

   岩国市  会 員   中村 美奈恵

 
息子は中学2年のときから反抗期に入った。クラブも勉強も友達ともうまくいかず、時には学校を休んだ。彼には高校3年の弟がいる。兄とは反対に、順調に歩んできた。

 そのことがプライドを傷つけたのか、全く弟と□を利かなくなった。大学に入り一人暮らしを始めた今も変わらない。大人になれば、わだかまりも消えると信じていても、2人笑顔で並んだ幼いころの写真を見ると切なくなる。

 ある日、九州に行ったとお土産を置いた。白い袋をのぞいた途端、涙があふれた。中には太宰府のお守りが。その時初めて、息子の真実の気持ちを知った。
  (
2009.11.05 毎日新聞「はがき随筆・特集『実』」掲載)

| | コメント (0)

2009年11月 4日 (水)

「応 援」

      岩国市  会 員   貝 良枝

美容専門学校に通う娘が帰省した。荷物を置くとすぐに「座って」と私を椅子に座らせる。後ろに回り、肩をマッサージし始めた。最近習ったそうだ。

 少し甘めだが、美容院で仕上げにしてもらうそれと同じだ。続けて夫もしてもらう。顔のマッサージもしてもらった。女が幸せと思うときは上げ膳据え膳で食事したとき。そして、髪をセットしてもらうときだろう。

 今日はそれを家に居ながらしてもらい、幸せなひとときを過ごした。ベッドで安心しきって寝息を立てる娘に、小さい声で力を込めて言った。「頑張りいよ!」   

 (2009.11.04 毎日新聞「はがき随筆」掲載)

| | コメント (0)

2009年11月 2日 (月)

「夫婦の危機に歩き方を自覚」

  岩国市  会 員   山本 一 

 私の癖はスリッパで歩く時に足を引きずること。パタパタと音を出す癖を自分では意識していなかった。ある時、思い知らされた。
 私たち夫婦は今年で結婚40周年を迎えた。自分で言うのも面はゆいが、夫婦仲に関する限り至極平穏に過ぎてきた。ところが数年前、定年退職後暫くして夫婦の危機が訪れたのである。 
 単身赴任先から私が自宅に戻り、妻と妻の母の3人同居となった。お互いに環境ががらりと変わり、次々と嫌な部分が見えてくる。一番の問題は、私が義母の気になるところを妻に言ったことだ。これが妻をひどくいら立たせた。
 そんな頃、妻が突然、「スリッパを引きずらないでよ」と凄い剣幕で怒りだした。これまで一度も言われたことがないので面食らった。慌てて直そうとするが駄目だ。これは私の癖なのだと気付いた。結婚して初めて夫婦の危機を感じた。
 二人の娘も当時は随分心配したと言う。「波浪警報」は1年以内で終わった。今、毎晩寝る前に書斎の机に並んで座る。寝酒を飲みながら、それぞれのパソコンに向うのが日課の熟年夫婦である。 
   (2009.11.02 朝日新聞「声」掲載)

| | コメント (0)

2009年11月 1日 (日)

「母に言えぬ田畑荒廃」

   岩国市  会 員   山本 一 

 私の古里は岩国から60㌔ほどの島根県吉賀町である。郵便局員だった亡父は、田畑をまったく持っていなかった。終戦直後は米や野菜がなかなか手に入らず、周りの農家がうらやましかった。
 田畑を持つことが父母の共通の夢となった。やがて当時としては大金をはたいて念願の田畑を手にした。母は土いじりが大好きで、元気なころは終日、田畑で過ごした。
 寝たきりになって数年の母が「畑はつくりよるかのお」「高い金をかけたのに」と言う。私はあいまいに「うん、サツマイモが間もなく掘れるよ」と答える。
 曲がりなりにも耕している畑は、全体の1割にも満たない。私にはこれが限界である。草ぼうぼうに荒廃した現状は、口が裂けても母には言えない。
 
私たち4人の子どもは中学卒業と同時に古里を離れ、岩国で下宿して高校に通った。父母は生活をぎりぎりに切り詰め、子どもと田畑に金を使った。
 
長男の私は、当時の質素な生活を思い出すと胸に迫るものがある。今、父母が夢にまで見てやっと手に入れた田畑を私たち子どもは持て余している。
  
2009.11.01 中国新聞「広場」掲載)

| | コメント (0)

« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »