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2010年1月

2010年1月29日 (金)

半世紀を刻む柱時計

  岩国市  会 員   山本 一

 
私の実家は島根県の吉賀町にあり、今は誰も住んでいない。この家に古いぜんまい仕掛けの柱時計がある。少し急がしそうに振り子をふり、ちくたくと声を上げ、月に3分程度早足で、最後の力を振り絞るかのように時を刻んでいる。

私が中学生の頃購入したもので、もう50年以上も動いている。なかなかの優れもので、時間に合わせて12時だったら12回「ボーン、ボーン」と鐘を打つ。更に30分ごとに1回打つ。打つ10分前に予告なのか「ギー」という音がする。

数年前、まったく動かなくなった。分解掃除をしたが、構造が思ったより複雑で、やっとの思いで復元した。何とか動き出したが1時間と持たない。あれこれと試行錯誤して、ぜんまいを一杯に巻かないで半分くらいで止めると、約2週間は動くことに気がついた。

数年前から、母は岩国の介護施設で寝たきり状態である。「家に帰りたい」という母の切なる願いはもう聞いてやれない。せめて母が生きているうちは、この古時計を動かそう。今日も古里へ車を走らせる。

 (2010.01.29 中国新聞「広場」掲載)

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「春遠からじ」

    岩国市  会 員   吉岡 賢一

 冬の朝日がぬくみを増すころ、決まったように2羽のスズメがひなたぼっこにやってくる。

 産毛を立て丸く膨らませた体にたっぷり日差しを浴びている。少し距離をおいた2羽。チュンチュンにぎやかに語るでもない。時折片方が寄り添い、耳元に何かをささやく。そしてチョンチョンと相手の羽繕いをしてまた離れる。仲むつまじい夫婦とみた。やがて訪れる春には、新たな巣作りや子育てに追われるのを見越して、餌も少ない寒い今、ゆったり英気を養っているのだろうか。日だまりに身を寄せるスズメの横で、沈丁花が小さなつぼみを付け始めた。
  (2010.01.29 毎日新聞「はがき随筆」掲載)

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「三女は……」

       岩国市  会 員   山下 治子

 三番目の女の子。父は「また女か」とふてくされ、しばらく家に帰らなかったとか。哀れに思った祖父が自分の名前の一文字を私に付けてくれた。

 年子で弟が生まれ、すぐ上の姉と私は何かとはじかれ、特に祖母の意地悪さは、子供心にきつかった。「長女、次女、便所、お前たち要らん子」と平気で言った。ある日、長姉と弟だけが色鮮やかなセルロイドの風車で遊んでいた。真ん中の姉が「鬼ババア!」と叫んで泣いた。泣くまいと祖母をにらむ私と姉の顔を白い割烹着でふくと、母は使用済みのハガキと割箸で風車を作ってくれた。色紙もはった。
  
2010.01.28 毎日新聞「はがき随筆」掲載)

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2010年1月26日 (火)

「もったいない亭」

        岩国市  会 員   貝 良枝

 冷蔵庫の残り物をテーブルいっぱいに広げる。どれも一皿。少々心が痛むので茶わん蒸しとサラダを加える。 


「今日の夕飯は居酒屋のようね」と言うと、娘が「居酒屋なんて体よくまとめんで。手抜き料理じゃん」。「違うよ。どれも手作りよ。作った日が違うけどね」。ニャッと笑ってはしをそろえる。和風、洋風、中華風。味にまとまりはないけど、もったいないからみんなで食べよ。雰囲気は居酒屋ってことで。

「ご注文の品はおそろいでしょうか?」「サイコロステーキ? 申し訳ありません。今日は終了しました」

    (2010.01.26 毎日新聞「はがき随筆」掲載)

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2010年1月23日 (土)

「ドジと老化の競演」

        岩国市  会 員   山本 一

 包帯でぐるぐる巻きの左手を見つめる。「ドジ!」。この言葉を何度つぶやいたことか。
 年末の土曜日に階段を踏み外し、左手を手すりで強打。そのまま忘年会へ行き、午前さま。いつも通り風呂にも入った。楽しんだつけで、翌日は丸々と腫れる。
 2日後「骨折後の対応が悪いので倍はひどくなっている」と医者に言われる。寝正月となった。
 1カ月前には釣り用のキャリーで小指を負傷し、やっと癒えたばかりだ。生来のドジと加速する老化のコラボレーションが始まった。妻や娘たちの胸中やいかに。崩れかけた夫像、父親像に正月早々焦る。
     (2010.01.23 毎日新聞「はがき随筆」掲載)

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2010年1月14日 (木)

「道 程」

      岩国市  会 員   安西 詩代

私の母は「昭和天皇 皇后写真集」を見るのが好きだった。知り合った96歳の老婦人は、夫が戦死され、3人の子供を独りで育てられた。夫が戦地に行ってから生まれた3人目は、一目も会うことはなかったそうだ

 その方も喜ばれると思い、写真集を持参した。にこやかな昭和天皇の表紙を見るなり、開くことなく両手でその写具を机の隅に押しやられた。見ない理由を語られないことが、悲しみの深さを表し、その時代の女性の生き方が伝わった。

 私はハッと独り善がりに気付き、楽しい話題に替えて、そっと写真集をバッグに収めた。
       (2010.01.14 毎日新聞「はがき随筆」掲載)

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2010年1月11日 (月)

「巌流島」

       岩国市  会 員   山下 治子

 
正月休みが終わり、再び単身赴任先へ人戻る主人を送りに出た。新幹線に乗った夫に手を振りながら、こだまがトンネルを入りきるまで見送ると、かすかな解放感の中で少しの寂しさと心配が入り交じる。
 
その晩、息子が思い出したように言った。
 「
お母ンたち、今回は巌流島せんかったね」
 
言われてみれば、お父ンと私、ずっと仲良しだった。
 
帰省するまでは「早く帰ってきてね」と優しく言えるが、「お帰り」から早ければ即日、持って3日後には武蔵と小次郎になっている。原因は、出迎え時間に遅れて待たせたとか、高血圧なのに風呂の湯が熱すぎたとか、私の気配り不足とお父ンの常識的責めからが多い。「またか」と思う私の面つきもヒートアップの種となり、気配を察した息子たちは「犬も食わネ」とサッと身をかし、仕事に自室に消えるのが常。なのに今度はどうしたのだろう。ムカつく瞬間はあったが、怒鳴り合うには至らなかった。息子が不思議がるのも当たり前だ。 
 
かれこれ10年の別居生活。息子や孫に心配の種はあってももうそれだけ。年を一つ越えるたびに、自分たちの心配の方が勝ってくる。三十余年、人生を共有してきた同志として、そろそろ落ち着ける兆しだろうか。それとも、やっと大人になれたということなのだろうか。お父ンの目尻のしわが、妙に優しく、イイ男に近ごろ見えてきた。
    
2010.01.11 毎日新聞「女の気持ち」掲載)

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2010年1月 9日 (土)

「町の変遷眺める駅舎」

      岩国市  会員   片山 清勝

 久しぶりに立寄ったJR岩徳線の西岩国駅。昔は町の中心駅として栄えたが、随分前から無人駅に変わった。朝日に照らさされた改札口の影は、人影のない待合室の奥まで長く伸びている。少しばかりやるせない。
 その待合室。飲料水と切符の自販機が、それぞれの場所を占めている。ディーゼルカーの接近は電光板の点滅とブザーが教えてくれる。天井のアンティークな照明灯は残されており昔を知る人を安堵させる。
 万葉集の地を旅行中の女性が「ローカル線はゆったり、のんびりして気持ちが洗われる」と話した。そう感じてもらえれば、この無人駅も「よかった」という思いになるだろうが、地元の利用者は「ゆっくり、のんびり、少ない便数」はありがたくない。それでも、それに生活をあわせてくれる必要な駅なのだ。
 上りのディーゼルカーが着いた。2人降りて1人乗る。1両だが、少し重そうな特有の音を残して次の終点へ向った。国の登録有形文化財の駅舎は80歳、冬の日に映える赤い屋根は、駅と町の変遷をどんな思いで眺めているのだろうか。
  (2010.01.09 中国新聞「広場」掲載)

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2010年1月 6日 (水)

「年 女」

      岩国市  会 員   樽本 久美

新しい年。5年間日記を買った「年女」の私。いつも以上に頑張らなくてはと思う。

 今年の目標は、大きな声では言えないが「はがき随筆月間賞入賞」である。私なりに、この人の随筆はいいなと思ったら、丸を付けている。3人の先生の評価と比べるのも、ささやかな楽しみである。「はがき随筆」を書いていると、いつかは実を結ぶのではないかと思う。

 毎朝、新聞を読むのが生活の一部になっている。私の名前が出た日は、晩ご飯が豪華になる。夫いわく「毎日掲載されればいいのになあ」。小さいことでも楽しんで書いていきたい。
  (2010.01.06 毎日新聞「はがき随筆」掲載)

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2010年1月 4日 (月)

「原爆の悲惨さ 涙禁じ得ず」

     岩国市  会員  横山恵子

 私の本はズバリ、中沢啓治さんの「はだしのゲンはピカドンを忘れない」(1982年)です。私は原爆の研修を経て昨年10月から広島原爆資料館で月2,3回、ピースボランティアをしています。原爆に対して、正直こんなに大変で奥が深いものとは思ってもみませんでした。

 原爆に関する本を読んでいくうちに、この本に出会ったのです。中沢さんは小学1年の時、家から1キロの国民学校の塀の影で被爆。紙一重の奇跡で助かったのです。父、姉、弟は自宅倒壊や火事で死亡。身重の母は赤ちゃんを産んだが4ヵ月後になくなったとのこと。街には全身真っ黒こげの人や無数の遺体。防火用水には母が我が子を抱きしめながら亡くなっているなど、悲惨な光景だったそうです。

 戦後、被爆者に対する差別や偏見もあり、家族を奪った原爆のことは忘れたかったそうです。しかし、母を火葬にした際、骨がなく放射能は骨までも奪うのかと強い憤りを感じ、書くことを決意されたのです。岩波ブックレットの55ページの本ですが、原爆に対する怒り、悲惨さが凝縮されており、涙を禁じ得ません。

 アメリカのオバマ大統領はじめ核保有国、そして日本の政治家にはぜひ読んでもらいたい。原爆や戦争で亡くなった人たちの無念の思いを心に刻み、微力ですが平和を訴えていこうと思っています。

          (2010,01,04 朝日新聞「声」蘭 ”私の1冊”掲載) 

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