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2011年1月

2011年1月31日 (月)

「最期の選択」

  岩国市  会 員   安西 詩代 

グループホームに入居する96歳の義母は、食欲がなくなって2ヵ月近くたつ。足がむくみ、肺やおなかにも水がたまるようになった。主治医から昨年11、「終末期です」と言われた。施設でも最期のみと方を相談した。

いざという時の救急車の搬送は断った。しかし、本当に最後の苦しみはないのだろうか。救急車を呼ばず、後悔はしないのか。正直、わからない。

義母は早くから日本尊厳死協会のカードを持っていて、「単なる延命治療はしない」と言っていた。食欲はなくなったが、まだまだのどは通る。

13回は通えないけれど、夕食だけでも食べてもらおう。スタッフの人では□を開かない。でも私だと、どういうわけか「もういらない」と言いながら完食してくれる。義母ののど食物を拒否し、通らなくなるまで食べてほしい。

そしてすべての器官終わりを告げ、ロウソクの火がそよ風でふっと消えてしまうように、息が止まることを析る。

悲しい別れが遠くないことを感じつつ、穏やかな死を、と願っている。そのうち必ず訪れる私の最期のときの理想の死を義母に求めて、そして重ね合わせる。

さあ、午後6時だ。夕食が始まる。自転車のあかをつけ、義母のもとへ出かけよう。

2011.01.26 朝日新聞「ひととき」掲載)

  

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2011年1月28日 (金)

年賀状読み返し感慨

       岩国市   会 員   片山 清勝

 お年玉つき年賀はがきの抽せんが終わった。当たり番号を探しながらあらためて読み返す。大方の人と年に1度だけの情報交換。そこにはうれしい知らせが多い。しかし「これで年賀を失礼します」と書かれた何通かがことしも届いた。

 「年と病でことしは賀状を毎日少しずつ書いた。ことし限りで失礼します」。続けて病状を記された一枚に目が潤む。

 病を押して書かれた一字一字にきちょうめんな性格がしのばれる。1年にはがき1枚だが、何十年も続いたその交流に感謝を込め、お見舞いのはがきを出した。

 メールの普及で、年賀はがきの利用者が減少しているという。外国ではクリスマスカードを送り合う習慣がある。年賀状は新年のあいさつと近況を報告し合い、日ごろの疎遠を埋める大切な日本の文化だと思う。

 私の賀状は、版画からパソコンヘ変わって長い。それがいつまで続くか分からないが、キーが打てる間は続けたい。

 これまでとは違った思いで賀状の整理をしていることに気づく。古希をすぎて初めてのそれがそうさせるのだろうか。

   (2011.01.28 中国新聞「広場」掲載)

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2011年1月26日 (水)

「メジロの身内」

  岩国市  会 員   沖 義照

 厚い氷が張った寒い朝、散歩で小道を歩いていた。雑木が道に覆いかぶさり、落葉が吹きだまっているところがある。その上に緑色のものが見えた。「なんだろう?」。近づいてみるとメジロが1羽横たわっている。   


 白くくまどられた目を閉じ、片方の羽を自分の身に覆いかぶせるかのように広げた状態であった。口ばしをつまんで持ち上げてみた。硬くなった体は、横たわっていた形のまま持ち上がった。そのまま見捨てるは忍びなく、ポリ袋に入れて持ち帰り菜園の隅に埋めた。

 孤独死防止が叫ばれている今、誰も知らないメジロの一生が終わった。
   (2011.01.26 毎日新聞「はがき随筆」掲載)

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2011年1月19日 (水)

「もう無いよ」

   岩国市  会 員   山下 治子

ゴミ収集車が来なくなった年の瀬。庭の隅に穴を掘り残飯を捨てた。翌朝、それがほとんど無くなっていた。誰か片づけてくれたのかな、と思いながらまた捨てた。

その晩、何やら気配を感じ、台所の窓を少し引き外をうかがうと、何かが動いている。よく見るとタヌキが家族でがさごそと残飯をあさっていた。

そうか、やっとご飯にありつけたんだ。犬がいたころは来たことがなかったのに、今は安心して食べている。タヌキは悪さをするというが、お正月はいつもよりごちそうの残飯だ。三が日だけね、と今夜も捨てた。
 
 (2011.01.19 毎日新聞「はがき随筆」掲載)

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2011年1月18日 (火)

記事に昔の娘重ね涙

  岩国市  会 員  貝 良枝

 くらし面の「思い出のれんらくちょう」が好きで、毎回読んで笑っている。11日付のそれは涙が出てきた。

 子どもは「人のためにあれこれ世話をやこうとする。『お役に立ちたい』という熱意に満ち満ちている」というところを読んで思い出した。

 今や私の大切な生活の一部になっている投稿。その始まりは、まさに娘の「お役に立ちたい」を書いたものだった。

 仕事から帰ってきた私を、当時小学5年生だった娘は、台所で夕飯を作りながら「お帰り」と迎えてくれた。その光景と「思い出のれんらくちょう」の内容が重なり、涙が出てきたのだ。

 その娘は、ことし成人式を迎え、大人の仲間入りをした。お祝いの式典をし、一緒に写真を撮った時、「私の子育ては終わったなあ」と感じた。

 ところで、娘の多くの「お役に立ちたい」の気持ちを、私は受け止めていただろうか。忙しい忙しいで気付かなかったことも多かったのではなかろうか。

 でも今更、考えても反省しても仕方ない。大きな心配もかけず、健康でいてくれたことに感謝するとしよう。

  (2011.01.18 中国新聞「広場」掲載)

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2011年1月14日 (金)

「名字の変わった賀状に」

   岩国市  会 員   吉岡 賢一

今年も多くの年賀状をいただいた。その中に確かに見覚えのある筆跡、下の名前も頭にこびりついている女性からの1枚があった。

「昨年は色々ご迷惑、ご心配をおかけしました。新しい職場で働いており体調も良好……」と、近況が記されている。

昨年までは、倅(せがれ)との連名で届いた年賀状。名字は我が家のものだった。今年は名字が変わっている。隣に倅の名前もない。 

6年間の結婚生活。共働きの利を生かして二人名義でマンションも買った。子どもこそできなかったが、順調でリッチな生活ぶりに親としては安心していた。それまで不穏な兆候もなく夫婦の間にすきま風が吹いていようとは思いもしなかった。我々には遠く及ばない、二人にしか分からぬ理由があったのだろう。昨年初め、お互い大人の感覚で円満な離婚に調印した。

確かな家庭で育てられ、看護師として嘱望された彼女。その聡明さ、利発さは舅(しゅうと)の私から見ても好ましいものだっただけに、残念に思う。彼女の助けを求める声や、倅の気持ちの揺れをもっと早く感じ取ってやれなかったか。親としてのふがいなさに悶々とした1年を過ごした。彼女から新しい住所を記した年賀状をもらって、やっと少し胸のつかえが取れた。 

次は、彼女からも、倅からも、新たな幸せが訪れたとの報告を受けたい。人生いつだってやり直しはできるのだから。

2011.01.14 毎日新聞「男の気持ち」掲載)

   

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2011年1月11日 (火)

原爆の怖さ伝える本

   岩国市   会 員  横山 恵子

 最近、心を揺さぶられた本は、石仏カメラマン井上清司さんの「ヒロシマ 今を生きる愛のきせき」だ。

 当時7歳だった作者は軍医長の祖父、祖母、おば、馬1頭と広島市内に住んでいた。毎月、公用で来る上等兵に父のぬくもりを感じていたが、彼に前線出動命令が出た。

 そして1945年8月5日に祖母と疎開し、6日に原爆が投下され、矢も盾もたまらず市内へ。そこには変わり果てた祖父と馬。おばは1カ月後、おじは2年後に原爆症で死亡した。

 6年生の時、原爆症の症状が次々と表れた。入院中、付録の写真機に興味を持ち、それがカメラマンの原点となる。

 60歳すぎて働き始めた祖母が高校、大学と仕送りしてくれた。そして被爆から50年後、上等兵から1通の手紙が。その驚くべき内容とは・・・。

 戦争に翻弄されながらも懸命に生きてきた人たらを支えたのは、家族の絆や人柄の深さではなかろうか。

 原爆の悲惨さ残酷さは言葉に言い表せない。核保有国、核抑止力を信じている人に言いたい。これを読んでも、なお核兵器は必要ですか。

  2011.01.11  中国新聞「広場」掲載

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2011年1月 5日 (水)

「まあるい」

      岩国市  会 員   片山 清勝


 パソコンで墨絵を描く講座。課題はお地蔵様。筆に見立てたカーソルが軽妙な講師の教え方に誘われてか、普段より軽快そうに動く。

 笑みを含んだまあるい顔の地蔵が受講者の数だけ誕生。並べて見比べる。人と人、親と子、国と国のいさかい事など思いもつかない穏やかな地蔵菩薩の顔々。太く書き添えた文字は「まあるい心で生きたい」。

 昨年も争いや苦しみ悩みがいろいろあった。皆がこんな顔、こんな心で過ごせたら、まあるい世界になるだろう。それを願って賀状のイラストはお地蔵様にしよう。 
  (2011.01.05 毎日新聞「はがき随筆」掲載)

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2011年1月 1日 (土)

「石にかじりついても」

   岩国市  会 員   吉岡 賢一

 製紙会社に勤めていたが、このまま60歳定年を迎えたら不完全燃焼のまま会社を去ることになるのではないかと思ったのが50代半ば。もしわがままが許されるなら、いま一度気持ちを奮い立たせ、持てる力を最大限発揮して燃え尽きたい、と自ら配置転換を申し出た。
 折良く新しい職場が見つかった。
産業医と協力、工場で働く従業員や協力会社員計1800人の健康・衛生管理を担当する仕事だ。労働基準監督署や保健所などとの対外折衝が主要業務で、衛生管理者の国家試験免許が必要だという。そんなこととは知らずに喜び勇んで配転に応じた私だが、今更後には引けない。
 
晩酌はもとよりタバコも断った。夕方7時のニュース以外はテレビも断って猛特訓が始まった。法令編・管理編の参考書と首っ引きの2ヶ月半。結果は1回目で大きなまぐれ当たり。世の中には神も仏もいてくれた。
 
残された5年、無我夢中で健康診断の制度設計や、職場の分煙などに取り組んだ。思い切って踏み出したあの時の一歩が、長い会社生活最後の花道を飾ってくれた。そんな現役時代を穏やかに振り返れるのはありがたいことだ。

(2011.01.01 朝日新聞「声;特集『有言実行』」掲載)

  

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「人生いろ色]

   岩国市  会 員   吉岡 賢一

 正月を迎えるたびに思ってきた。今年はどんな色合いの1年になるのだろうかと。穏やな緑もいい。真っ赤に燃える激しさもいい。元気の出る黄色もいい。

 
人生いろ色だが、出発点は何色も混じらない真っ白がいい。妻との二人三脚も40年を迎える。花嫁衣装の白無垢がどんな色に染まり、どんな人生模様を描いているのだろう。

 
今はまだはっきり見えていないが、できるなら「いい色合いだね」と笑顔で振り返りたい。年々の積み重ねをおろそかにはできない。今年も白を基調に多くの色を塗り重ねてみたい。
   
2011.01.01 毎日新聞「はがき随筆」掲載)

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